手紙
あんなに通じ合ったのに 盲目になって今日も拗ねる
今でも思い出す光
こんばんは。
お寿司の食べ過ぎにより苦しんでいました。なんという贅沢。腹8分目って大事ですね。
少し前にTwitterで友人の「小学生の頃に書いた未来の自分への手紙を読んだ!」という旨のツイートを見かけた。もちろんこんなテイストではなくもっといい感じのテイストで肝心の手紙の内容も面白かった。
その時はハートマークを押しただけだったがじわじわ羨ましくなってきた。
過去の自分の状況を記憶や写真から整理して把握することはできてもその当時と全く同じ状況に立つことは突然できない。
どれだけ望んでも10代の頃の自分が今の自分に書いた手紙は存在しない。
別に手紙でなくてもいいけど、過去の自分が等身大の言葉で綴ったものが一つも存在しない。
その瞬間あるいはその日、その週ごとにあった感情体験を後世の自分に残すために日記は存在するんちゃうかな。
日記をつけようと試みたことは何度かあったけど、誰も自分の日記なんぞ見やしないのはわかっているのに毎度毎度どのように感じたのかを書くのが恥ずかしくなってしまい出来事の羅列でしかない謎報告文を2日分書くだけで終わってしまった。
でも本来は日記には状況を書くことに意義があるのではなくその状況下でどのような感情が沸き起こったかを書くことに意味があるはず。
僕のこれまでの日記は自己満報告ノートだったということになる。
手紙に関しても似たようなことが言えるかもね
企業とかじゃなくて人が人に送る手紙に事実だけを羅列しているケースは少ないような気がする。
文明の利器の台頭で手紙を書くという文化はかなり廃れてきてるのかもしれないけど、それでも自分の手で感情を相手に伝えるということが大事なのかもしれないですね
だから手紙に関する歌も多いのかな
とりあえずこの投稿を数年後に見返した僕が今の僕を知れるといいなと思います