今のところ
今僕は頭がいたい。
今僕は歯を磨いている。
正確に言えば歯を磨いている最中にブログの記事を書いているので歯ブラシを口に咥えている。
今僕はスマホの画面に焦点を当てようとしているが右目でばっかり見ている。
さて、なんで立て続けに現在の状況を説明しているでしょうか
なんでと問いかけた割には明確な目的意識を持っているわけではないよ、にわかに思いついたからっす
ブログでは近況を投稿するけどそれは実はちょっと前から現在までの状況、いわゆる現在完了形の時間軸のことだなと思った。
今、現在進行形で起こっているものはTwitterに投稿することが多い。というかそれが本来のコンセプトであったはず。
ところが昨今は承認欲求を満たしたいがためにリアルタイムでは発信せずに推敲を重ねた末に面白おかしく現在完了形や過去形でTwitterに投稿することが増えている。もちろん僕の投稿もそう言ったものがほとんど。
そこで、敢えて、時代に逆らって現在進行形の内容をブログに投稿してみたくなったわけです。
型にハマりたくない、人と違うことをかっこいいと思っている人種なので。変わっていると言われるとちょっと嬉しいし。
高校の時皆が定番のそばを頼む中僕だけが十割そばを頼んでいるのを見て「でも人と違うっていうのは大切なことやで」っておっしゃってくれた先生元気かなあ。
以上、現状報告でした。
今僕は頭が痛いけど元気です。
音楽ジャンキー
ミュージシャンは言った。
「嫌いな人のことで悩んでる暇ないですよ、嫌なことや辛いことは僕たちが爆音でかき消してやります」
胸を打たれるMCだ。鳥肌がたった。
ジンジャーエールが入ってパンパンになったかばんを抑えながらぴょんぴょん跳ねてたけど、本当にそうかな?自分にできるかな?
嫌いになったり嫌いになられたりした人のことを考えるのは無駄なことかな、必要ないことかな
もちろん本当にただただむかつくだけのやつもいるからそいつのことは考えてる暇なんてないよね
でも嫌いになったりなられたりするくらい関わりを持った人同士は互いに少なからずインフルエンサーなわけで。感情を揺り動かすほどに関わり合った大切な人なわけで。富良野は寒いわけで。
どれだけ立ち止まっていてもわからない
とりあえずイヤホンぶっさして歩きながら考えてみようかな
継続は力なり
継続は力なりという言葉がある。
小学校で何故か人気だった隙あらば体育の授業をねじ込んでくる隣のクラスの担任が卒業式で我々に贈ってくれた言葉だ。
その教師は中高でバスケをしていたらしく自身がそこそこ運動ができるため運動ができないという小学校生活において致命的なdisabilityをもつ僕のような生徒の気持ちは全く理解できていなかった。クラスの人気者たちは基本的に足が速いから算数が体育になると喜ぶ、僕のクレームは声にならず消えていく。スポーツの得手不得手は結構人格形成に関わってくると思うなあ。
小学校の体育の授業を思い出すたびにブルーな気持ちになってしまう
話が逸れてしまった、根に持つタイプはなかなか好かれないから気をつけようかな
このブログは最初の記事を投稿してからもうすぐ200日になる。投稿ペースはうんこだけど200日もブログを続けたことになる。
もちろん高頻度で投稿する方が自己開示の量が多いし文章を書くのも上手くなると思うけど、飽きっぽい自分にはどんなペースであれ200日間継続したことが奇跡に近い。
間が何日あこうが記事を投稿するたび継続日数は増える、僕の継続は続き力になる。
年が明け、2019年になり、ブログを始めたり再開したことを報告している人を何人か見かけた。
こんなの自己満足でやっているし恥ずかしいから自分は大々的に報告する気は特にないけど今年もゆるっとブログを続けていこうと思います。
見てるか、体育教師。お前が卒業式で余計なこと言うから継続は力なりって言葉を聞くたびにお前のことを思い出すようになったぞ。
僕は運動はできないけどこうやってブログ書いて、毎日ご飯食べて、継続して生きてるぞ。
背伸び
皆が彼女の方を向いている
彼女は舞台の上で彼女にしか出せない音を出す
汚い画面越しの彼女とは全く違う、奥行きがあって、表情があって、生きている
尋常じゃなく目が良いという彼女は順番に皆を見つめる
僕の番がくる
彼女に吸い込まれる
訳
今日は友達の誘いでライブに行ってきた、ライブハウスでのライブに行くのは初めてだったけどアリーナとかでやるより全然距離が近くて生で見てる感満載
ライブで目が合ったと主張している人を見ていやいやいやと思っていたけどその気持ちがとてもよく分かった
大きな目のボーカルさんはギターを弾いて歌いながら皆の顔を見渡していって僕と目が合うと(少なくとも僕はそう思った)大きく目を開いた。
綺麗とか可愛いとかで表現はできないんだけどライブの間中その目の虜になってしまった。
ライブハウスのライブサイコーかよ!
冒頭の文章みたいに背伸びして筋肉痛になった足を揉むのに忙しいから課題は明日の朝することにしよう
手紙
あんなに通じ合ったのに 盲目になって今日も拗ねる
今でも思い出す光
こんばんは。
お寿司の食べ過ぎにより苦しんでいました。なんという贅沢。腹8分目って大事ですね。
少し前にTwitterで友人の「小学生の頃に書いた未来の自分への手紙を読んだ!」という旨のツイートを見かけた。もちろんこんなテイストではなくもっといい感じのテイストで肝心の手紙の内容も面白かった。
その時はハートマークを押しただけだったがじわじわ羨ましくなってきた。
過去の自分の状況を記憶や写真から整理して把握することはできてもその当時と全く同じ状況に立つことは突然できない。
どれだけ望んでも10代の頃の自分が今の自分に書いた手紙は存在しない。
別に手紙でなくてもいいけど、過去の自分が等身大の言葉で綴ったものが一つも存在しない。
その瞬間あるいはその日、その週ごとにあった感情体験を後世の自分に残すために日記は存在するんちゃうかな。
日記をつけようと試みたことは何度かあったけど、誰も自分の日記なんぞ見やしないのはわかっているのに毎度毎度どのように感じたのかを書くのが恥ずかしくなってしまい出来事の羅列でしかない謎報告文を2日分書くだけで終わってしまった。
でも本来は日記には状況を書くことに意義があるのではなくその状況下でどのような感情が沸き起こったかを書くことに意味があるはず。
僕のこれまでの日記は自己満報告ノートだったということになる。
手紙に関しても似たようなことが言えるかもね
企業とかじゃなくて人が人に送る手紙に事実だけを羅列しているケースは少ないような気がする。
文明の利器の台頭で手紙を書くという文化はかなり廃れてきてるのかもしれないけど、それでも自分の手で感情を相手に伝えるということが大事なのかもしれないですね
だから手紙に関する歌も多いのかな
とりあえずこの投稿を数年後に見返した僕が今の僕を知れるといいなと思います